一.
漂う潮の香りと身体に染み付く湿気を孕んだ風。
大地とは異なり、波のうねりに左右される足場。
辺りを揺るがす喧騒と交わる刃――そして斃れる敵。
――堪らねぇな、この感じ。
口許に笑みを刷いて今、薙ぎ払ったばかりの剣を振り上げる。確かな手応えがあり、紅い飛沫が舞った。それが甲板を汚すより早く身体の向きを替えると剣を構え直し、笑みを湛えたままで周りを囲って間合いを詰めてくる連中と向かい合う。殆ど同時に攻撃してくる敵の刃を避け、或いは受け止め、身軽に敵を斬っていく。
暫く経つと四辺に敵兵は居なくなり、彼は息を一つ吐くと周りを見渡した。
荒れて所々が朱に染まった甲板。負傷した兵も居るが、身方の軍勢はほぼ無事である。
「ったく。舐められたもんだよな、我が軍も」
黒色に輝く鞘を握り、勢いをつけて剣を振ると付着していた血糊が飛び散った。しかし汚れは落ちきらず、帰宅してから手入れし直さなきゃな、と思う。
「昔、イングランドに大敗したからと云ったって、てめぇらネーデルラント人に負けるかよ」
『アルマダ・インベンシブレ無敵艦隊』と揶揄を込めて呼ばれていた海軍の艦隊だが、十九年前の英仏海峡での戦では海賊と手を組んだイングランド軍から大打撃を蒙った。更に最近は属国のネーデルラントがイベリア半島界隈に出没しては輸送船を襲う。そうにも関わらず未だこうして軍隊を維持し、国力も衰えていないのは、植民地である新大陸から得られる物資が有るからだろう。
――十九年前、オレが海軍に入っていたら少しは役に立てていたかも知れないけどな。
彼はマストに凭れ掛かって空を仰いだ。青い空と強い日射し。それが溶け込んだような蒼を湛えた海。
彼はこの光景を気に入っていた。海に出て警邏し、海賊や敵国艦隊と一戦を交えることほど楽しいものはない。
「カツヤ」
名を呼ばれて彼は甲板上に視線を戻した。
「捕虜はどう如何する?」
同僚が縄を付けた異国人を指差す。満身創痍の敵兵らは座ることもままならないほどの傷を負っていた。
「オレみたいな一兵卒じゃなくて上官に訊けよ。まぁ、慣例通り、一応は審議に掛けるんじゃね?」
カツヤと呼ばれた青年は再び空を見上げた。髪を巻き上げる海風が心地良い。
ガレアス船は港に入り、海軍兵は意気揚々と船を降りる。足を着いた地は硬く、今まで波に揺られていた身体に違和感を齎した。
港には勝利を祝福する人々が詰めかけて喝采を送っているが、戦で少なからず疲れている所為か、彼等の厚意に煩わしさを感じてしまう。
カツヤは彼等から離れ、街への抜け道へと行き先を替えた。
「綺麗なおねーちゃんがキスしてくれるって言ったって、今だけは御免蒙るね」
兎に角、今は早く自宅に戻って馴れた寝床でゆっくりと休みたい。そう思いながら歩んで行く先――船を係留する際に縄を結びつける杭に、長身の男が腰掛けて海を眺めていた。細く流れるような焦茶色の髪に額を覆われている彼の、高い鼻梁と端正な横顔は何処か異国の風貌を感じさせる。
――イングランド人やネーデルラント人だったら、叩き斬ってやる。
腰後ろに差した剣の柄に手を添え、カツヤは男に近付いて行く。
意味こそ判らないが、英語と、ネーデルラントで喋られるドイツ語とフラマン語の語調は判別がつく。もし前方に居る男が発した言葉がこのいずれかであれば斬り捨ててやろうと、更に一歩、もう一歩と進む。柄を握る手に力を籠めた時、男がゆっくりと振り向いた。カツヤの足は止まる。
切れ長の双眸――その深く蒼い大海のような瞳が印象的な整った容貌。痩身だが均整の取れた体躯。斬り殺すにしても、この身体の何処に刃を当てれば良いというのだろうか。
「殺戮者か?」
低めの透る声が紡いだのは流暢なスペイン語だった。
「殺戮者って?」
問うと、聡明そうな唇が弧の容に歪んだ。整った顔立ちの所為か、その表情はとても酷薄に映る。
「全身血塗れだ。訓練を受けた海軍兵のくせに、そこまでの返り血を浴びるとは情けないものだな、未熟者め」
「な……っ」
二の句が継げない。
カツヤはこの男に見惚れていた自分を呪いたくなった。これが初対面の人間に向かって言う台詞だろうか。
「しかも、オレを斬るつもりでいただろう。戦の後で気が立っているのは判らんでもないが、殺気も抑えられんのか」
男は立ち上がり、呆けて立ち尽くしているカツヤを一瞥して、ふん、と鼻を鳴らすと踵を返す。何処からともなく跳んできた白い鳩がその頭上を旋回し、肩にとまった。
食卓を拳で打つと、鋭い音と共に皿が撥ねて料理が揺れた。突然の行動に驚いたユウギが、大きな瞳を更に大きく見開いてカツヤを見る。
「如何したの?」
戦勝の祝いと労いを込めて、親友であるユウギはカツヤを食事に招いてくれた。テーブルには色とりどりの料理が並び、ワインも上等なものが開けられている。
「あ、いや……わりぃ。嫌なヤツを思い出しちまっていた」
カツヤはパンを千切って口に放り込み、スプーンを手に取った。
「すげぇ顔が整っていて気品があるヤツでさ。ちょっとあんなの居ないぜ。でも性格が悪い。根性が捻くれているなら、それなりのツラをしてろっつーの」
「カツヤくんがそんな言い方するのって珍しいね」
ユウギは止まっていた食事を再開する。
カツヤは基本的に友人知人に向けて、敵国人は別として他者の悪口等を言うことはない。性格が悪い、と彼は云ったがユウギが思うに、根本的に相手と性質が合わないだけではないだろうか。
「でもさ、対ネーデルラントの戦っていつまで続くのかな」
呟きに、カツヤはスープに向けていた視線を上げた。
「あいつらがさっさとプロテスタント新教を捨てて、独立するのも諦めておとなしくスペイン王国領に落ち着けば終わるな」
スペイン領ネーデルラントはドイツで起こった宗教改革の影響を受けてプロテスタント新教が広まったが、それを君主であるフェリペ二世が弾圧したため支配国からの独立を求め、有力貴族が筆頭となって叛乱を起こした。前世紀半ばから始まった叛乱は、最初の蜂起から四十年経った今も続いている。
「ま、近いうちに海軍がネーデルラントに出向くから、スペインの圧倒的な勝利で戦は終結するさ」
うん、とユウギは小さく頷いた。
「もし、戦になっても無事でいてね」
「何言ってんだよ。当たり前じゃねーか」
負けるはずがない。なにしろ、諸国で無敵と称されるスペイン海軍である。
カツヤは陽気に笑って、ローストされた鶏肉にかぶりついた。
調練の帰り、食材が底をついていることを思い出し、カツヤは市場へと寄った。
活気のある往来は日用品や食材など様々な品物で溢れ、彼は先ず野菜を買ってからパン屋に向かう。焼けた小麦の良い香りのする店内に入ると店主を探し「おっちゃん」と呼び掛けた。
「いつものやつを二袋頼む」
「カツヤくんか。悪いけど、ちょっと待ってな」
客の対応をしていた店主が、カツヤの注文を承ったとばかりに手を挙げ、呼応するように、品物を受け取った客が振り向いた。
「ああっ!てめぇは……!」
叫んで思わず指を差す。
「なんだ、貴様か」
昨日、港で出会った蒼い瞳の男がそこに居た。
友人かと訊く店主に大袈裟なまでの身振りで違うと訴え、カツヤは店から出てくる男を睨み付ける。視線を受けて男は、嘲るように口角を吊り上げた。
「弱い犬ほど吼えるというが、まさにその通りだな」
「ンだと?」
「図星を指されて腹が立ったか?」
ちっと舌打ちをするにとどめ、カツヤは商品を用意してくれた店主に始めに見せていた笑顔を向けてコインを渡す。釣りと二袋のパンを受け取り、礼を述べて店を出ると、男は未だそこに立っていた。係わるとまた気分を害するに違いない、と無視を決め込んで彼の横を通り過ぎる。
「カツヤ」
名を呼ばれたことに驚き、カツヤは足を止めた。驚愕に見開かれた目を男に向ける。
「……なんでオレの名前を」
「店の主人が呼んでいただろう。貴様はほんの数刻前のことも覚えておらんのか、カツヤ・ジョーノ」
鳥頭め、と呆れ気味に貶す男を食い入るように見つめるしか出来ない。
如何して、と音もなく唇が動く。
「如何して知ってんだよ。オレ、お前に名乗ってねぇぞ」
「スペイン海軍のジョーノと云えば、近隣諸国ではそれなりに名が通っている。明るい金色の髪で黒い柄の剣を携えた海兵には気をつけろ。刃を交えると無事には済まないと。まるで狂犬だな」
うるせぇ、と吐き捨ててカツヤは男を見据えた。
「てめぇ、外国人かよ」
「まぁそんなところだ。暫く滞在することになったのだが、食事の仕度に困っている。見れば貴様は野菜を購入している。と云うことは、上手い下手は兎も角として調理は出来るのだろう?」
カツヤはパンと一緒に抱えた袋に視線を落とした。
突き出したセロリの隙間からトマトとズッキーニが見える。
「出来るぜ。しかも美味いのがな。それが如何した?」
「食事を作りに来ないか。食材は適当に見繕えば良い」
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