『アーギュメント』
土曜日の朝、海馬モクバはバスケットを手に海馬コーポレーション本社へと向かっていた。兄が経営する会社は邸から近く、今日は晴れて気候が良いので歩いていこうと、いつもなら車で通る道を歩いていく。
バスケットにはサンドイッチとフルーツが入っている。
昨夜兄は社内泊だった。忙殺されて帰ってこない事は珍しくないが、仕事に没頭するあまり寝食を忘れるのが気に掛かる。いくら若いからとはいえ、無理を溜め込んでいてはそのうち倒れ兼ねない。
――多分、また夕食を抜いたんだ。
徹夜の翌朝、毎回とはいかないが、学校が休みの日か、または一時間目の教科に受ける価値を見出だせない時にはこうして軽食を兄に届ける事にしている。
慣れた道をのんびりと歩いていくとやがて会社のビルが見えてきた。広い玄関ホールを通りエレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押す。
――土曜日だけあって静かなものだよな。
平日なら出入りする社員や業者が行き交っている玄関口には人は居らず、タイミングが悪ければ待つ羽目になるエレベーターは直ぐに扉を開けた。そのままどの階にも停まらずに社長室の在る最上階に向かう。唯一の部屋の扉を軽く二度叩き、そっと扉を開けた。
「兄サマ?」
隙間から覗いた室内に兄の姿はない。だが仕事途中なのか処理半ばの書類が来客用のテーブルに置かれ、電源が入ったままのパソコンはファン音をたて続けている。
「仮眠室かな?」
モクバは部屋に入って机の空いた場所にバスケットを置き、附随する仮眠室に向かった。
先代の社長・海馬剛三郎が建てたビルは、彼が使い易いようにと造られている。仮眠室あり簡易なシャワー室あり。
しかし兄がその部屋を使う事は余り無い。今日のように朝早くに伺ったとしても、たいていは執務机で弟を迎える。
「余程疲れているのかな」
此処数日は落ち着いていた仕事だが、それまでは発売予定のゲームの開発で会社に詰めっ放しだった。僅かな期間では疲れは完全に癒えていなかったのだろう。
「兄サマ」
扉を開けて声を掛けると、兄はベッドの上で立てた片膝に片腕を乗せて座っていた。
振り向いた兄の隣で、大袈裟に跳び起きる影。
「あ、ごめんなさいっ」
しまった、と慌てて部屋から出て扉を閉める。派手な音をたてて閉まった扉から退き、ソファに飛び込むように腰を降ろして大きく息を吐いた。
「心臓に悪いぜぃ」
兄が女性を連れ込むのはこれが初めてではない。過去に何度か出くわした事がある。たいていはソプラノで叫んでシーツを手繰り寄せるか、兄の身体の影に隠れるのだが、今回の彼女は一般的な反応とは違った。
あの女は跳び起きた後、裸のままでどう如何するつもりだったのだろうか。
「モクバ」
寝室から兄が一人で出て来る。女はシャワーを浴びているのか身仕度に手間どっているのか、出て来る様子はない。
「驚かせたな」
「全くだぜぃ。仕事途中っぽい様子だったから、まさか女の人を連れ込んでいるなんて考えなかったよ」
兄は小さく笑い、モクバの正面に座った。
「女、か」
愉しげに喉を鳴らす兄に、取り敢えず食べてよ、とバスケットを差し出す。兄はそれを開け紙製のケースに入れられたサンドイッチを取り出した。
「あれが来てから食べよう」
ふぅんと相槌を打つモクバの内心は余り面白くはない。だから「また直ぐに別れるんじゃないの」などと意地悪な発言をしてしまう。実際、兄が今まで付き合って来た恋人たちの中で二十日以上ともった者は居ない。原因の一端はモクバにもあるのだが、兄は執着心が無いのか、去り行く恋人を引き止めようとしたことは無かった。
「今回は違う、別れるつもりなどない。漸く手に入れたのだからな」
「へぇ」
珍しい事もあるものだと子供は大きな黒目がちな瞳を更に見開く。口調から察するに、求めずとも向こうから言い寄られる兄が、まるで自分から欲したかのようだ。
「そんなに美人なの?それとも才女だとか?凄く気立てが良いとか?」
「造形は悪くないな。だが、頭は悪くて落ち着きもなく、単純で直ぐに悪態をつく」
「何処が良いんだよ」
呆れたような口振りに海馬はくくっと押し殺したように笑った。その表情が彼らしくなく幸せそうである。
「しかしあいつは何をしているんだ」
彼は腰を上げた。扉を開けて未だ出て来ない恋人に「おい」と声を掛ける。
「いつまでそうしているつもりだ?腹が減ったと言っていただろう。自宅からサンドイッチを持ってきている、食わんのか?」
「ンな事言ってもさ」
耳に届いた響きにモクバは首を傾げた。女性のものにしては低い声。
「モクバが居るじゃん」
聞き覚えのあるそれに、モクバは兄の側に駆け寄り部屋の中を覗きこんだ。乱れたベッドの上に、Tシャツとジーパン姿の人物が座っている。
「城之内?」
びくっと肩を震わせた人物は暫く困惑した視線をさまよ彷徨わせ、「よう」と軽く手を上げた。モクバは兄とその恋人を交互に眺め、「えぇっ?」と叫ぶ。
居心地悪そうに複雑な笑みを浮かべているのは城之内克也。モクバも面識がある兄のクラスメイトの――男である。
執務室に出て来た城之内は挙動不審気味にソファの端に座り、真っ赤に染まった頬でサンドイッチを頬張った。その隣では海馬が、城之内とは対照的に何一つ気にした様子もなく、コーヒーを飲んでいる。
モクバは穏やかでない眼差しで城之内を眺め、大きな溜め息を吐いた。
「なぁ」
呼び掛けると落ち着きを欠いた仕種で姿勢を正し、何、と上擦って裏返った声で訊き返す。
――こんな奴の何処が良いんだよ。
悪い人物で無い事は知っている。友達として付き合うなら多分、それなりに楽しい奴なのかも知れない。
「お前、兄サマの何処が好きなんだ?」
「えっ?」
一瞬海馬を見てから視線を戻し、そのまま硬直した彼に、モクバは再度溜め息を吐いた。
「お前って確か兄サマと仲が悪かったじゃん」
「何処が好きかなんて判らねぇよ。顔は良いし頭も良いんだろうけど性格の悪さが総べてを台無しにしてるし」
横で聴いていた海馬が笑いだす。城之内は彼を睨み、口を尖らせた。眉を顰めた彼の、兄を見る瞳に慈しみを見て取りモクバは耐え切れずに机を叩く。
「兎に角、オレは反対だぜぃ」
途端に城之内の表情が歪んだ。気の強そうな瞳は陰り、サンドイッチを持つ手は微かに震える。
「相手が凄く美人でも家柄の良いお嬢サンでも直ぐに別れたんだ。男同士なんて絶対に続くもんか。オレは反対だからね」
モクバは叫び席を立った。
「不毛じゃん、有り得ない。気の迷いだよ」
モクバ、と怒りを含んだ兄の声に怯んだ子供は口を噤み、泣きそうな顔になって部屋を飛び出した。
「おい」
城之内は荒々しく閉められた扉に飛び付き、エレベーターに乗り込もうとする小柄な後ろ姿を呼ぶ。
「生半可な気持ちで男になんか惚れるかよ。お前には悪いけど別れるつもりなんて無いからな」
モクバは何も答えず、此方を見ようともせず、不貞腐れた面持ちのまま扉の向こうに消えた。
「……賛成はされないと思っていたけど」
正面切って反対された上に不吉な発言までされるとは。
「だが、面白い台詞が聴けたぞ」
振り返ると、海馬が口角を吊り上げて此方を見ていた。
「そこまで想われていたとはな」
途端に彼の顔は紅潮する。
「聴いてるんじゃねぇよ」
「あんな大声で叫んでいて聴こえないわけがない」
城之内はつかつかと歩み寄りソファに荒く座る。
「頼む。忘れてくれ」
めちゃくちゃ恥ずかしいからさ、と両頬を覆った彼のこめかみに口付け、海馬はその耳元で囁いた。
「断る」
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『フォルトゥナ』
学校から児童擁護施設に戻るなり、女性職員から出掛ける支度をするようにと言われた。判った、と返し、瀬人は二階の大部屋へ向かい、背負っていたランドセルを置くと、保護者に渡すようにと配布されたプリントを取り出した。両親が既に亡い為、プリントは施設の職員に渡さねばならないのだが、急いでいる様子だった彼女には今直ぐプリントを読んでいる余裕などないだろうと、彼は取り出したそれを勉強机に置いて階下に下りた。玄関ではさっきの職員と、その傍らで弟が待っていた。見れば弟は俯いて泣いている。
「モクバがどうかしたのか?」
「庭で遊んでいて指を突いたらしいの。余りに痛がるから病院で診て貰おうと思って」
病院に行くだけなら自分の帰りを待つ必要は無いではないか。そのように言うと職員は、困った様子で溜め息を吐き、弟の頭を労わるように撫でた。
「病院は嫌だって駄々を捏ねて……如何してもと云うなら、お兄ちゃんが一緒だったら行くと言うから」
「なるほど」
得心し、瀬人は背を屈めて弟の顔を覗き込む。
泣いていては涙で前が見えないだろう、オレが手を繋いでやるから、と手を差し出すと、モクバは目許を拭って頷き、その手を握った。
午後の診療が始まって間もない総合病院は患者が多く、兄弟が向かった整形外科の診察室前の待合には空席が二つしか残っていなかった。
「モクバと先生が座れば良い。オレはあの辺りに居るから」
瀬人は通路の角を職員に示し、そこに向かった。此処なら彼等が診察室に入るのも出て来るのも確認出来る。
壁に凭れて彼は周囲を見渡した。滅多に訪れる事のない病院だが、来たい場所ではない。漂う薬品臭と行き交う患者や看護士たちの姿は、厭な思い出を過ぎらせる。
呼びつけられ、何が何だか判らずに立ち尽くし、ぼんやりと眺めていた扉と手術中の文字。通路に出てきて、暗い表情で肉親の死を伝える医師。
瀬人は、忌々しげに小さく舌打ちをした。過去を振り返るなど愚かしい。脳裏に浮かんだ光景を追い払うように振った頭を上げると、その目の前を腹の大きな女性が通り過ぎた。腹囲の大きさの割に手足は通常の太さしかない。つまり肥満ではない。
――妊婦か。
彼女が向かって行った方を見れば、産婦人科と看板が掲げられ、腹の大きさはそれぞれだが、数人の女性が診察を待っていた。整形外科の患者たちとは異なり、彼女たちの表情は何処となく幸せに彩られている。
そこに異質な存在を見掛け、瀬人は眉を寄せた。
椅子に腰掛ける男子学生。脱色しているのか金色の頭髪を持つ彼は、女性ばかりの待合の中でひとり浮いている。
不審な視線に気付いたのか学生は顔を上げた。彼は瀬人を瞳に映すと微かに目を瞠り、そして腰を上げた。
「なんで産婦人科に男がいるんだって言いたげだな」
浮かべた笑みは声質と同じように明るい。
「彼女がさ、アレがこねぇって泣き付いてきたから連れて来たんだけどよ、居心地悪いっての」
「アレ?」
何を指すのか判らずに首を傾げると、学生は「いや、知らなくていい」と苦笑する。
「一人か?」
問われて整形外科を示し、弟と保護者が一緒だと言うと、彼はそちらを眺めてから瀬人の隣りに座り込み、その所為で低くなった目線を上げてきた。一人で居たという事は、彼の恋人は診察中なのだろう。診察室の前で待っていてやらなくても良いのかと思うが、学生は気にした様子はない。
「遠目に瞳の色がちょっと変わっているなって思ったんだけど、蒼いからだったんだな」
そう言う当人の瞳も薄く紅色がかっており、髪の色と相俟って全体的に淡い印象を受ける。
「視力は良いのか?」
「それなりに」
笑みを浮かべた表情は、はじめに見た時よりも幼く感じさせた。鮮やかな紺色の詰襟から察するに童実野高校の生徒だろうが、学年は判らない。疑問を口にすると学生は「高二」と答えた。
「そういうお前は?小学生だろ?」
「ああ。五年だ」
「五年?……小五にしちゃあ落ち着いてんだな」
オレはよく落ち着きがないって小言を食らうんだよ、と言う彼は、子供である瀬人の目から見ても、その喋り方にしても些細な仕種にしても落ち着きがあるようには見えない。それが可笑しく、瀬人は小さく噴き出した。
年下に笑われたのが不服だったのか、学生は僅かに唇を尖らせる。その顔が余計に子供じみていて、相手が年上の男だというのに可愛らしくすら思えてくる。
他人との間には壁を作り、交友はあっても深く付き合う事を良しとしない瀬人だが、この学生に対してはいつものような警戒心が生じない。それどころか、傍に居ると落ち着ける。楽しいとすら思う。
「名を訊いても良いか?」
訊かれると思っていなかったのだろう、尋ねると彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、次いで笑みを見せた。
「お前の名前も教えてくれるならな」
そう言った彼に名を告げようと口を開きかけた時、
「此処に居たの?克也くん」
と鈴の鳴るような声が聞こえてきた。学生が苦々しげに顔を上げ、瀬人も倣って視線を向けると、童実野高校の制服に身を包んだ女が腰に手を当てて見下ろしていた。
「人が不安な思いで診察を受けてるのに、こんな所で子供と喋っているなんて」
「悪い悪い」
悪怯れもせずに学生は腰を上げ、女学生を見下ろした。
「で、如何だったんだ?」
「結果だけが気になるの?」
面倒臭そうに一つ溜息を吐いてから、城之内は瀬人を見る。
「彼女が戻ってきたから帰るわ。一人で待ってられるか?」
「誰に訊いている」
子供扱いするなとばかりに凄んでみせると、学生は肩を竦めた。
「その調子なら大丈夫そうだな」
学生は口角を上げ、瀬人の髪を撫でた。
「じゃあな。機会があったらまた会いたいな」
そう言って背を向けた彼が見えなくなるまで見送っていた瀬人は、施設の職員に名を呼ばれるまでそこに佇んでいた。
「さっきのお兄さんって、知っている人?」
「いや……」
瀬人は学生が消えた通路の先を眺めながら返した。
「全くの初対面だ」
「一人で居る瀬人くんを気遣ってくれたのよ。良い人ね」
首肯し瀬人は、彼女に連れられてきた弟を見た。
「モクバの診察は終わったのか?」
「ええ」
職員はモクバの伸び放題の髪を撫で付けるように漉く。
「手首の捻挫ですって。暫く痛むみたいよ、可哀相に」
瀬人は溜め息を一つ吐いて、弟に目の高さを合わせた。
「痛むか?慰められたいほどに辛いか?」
「平気だよ、兄サマ」
モクバは包帯が負かれた手をあげ、負傷の痛さを隠すように笑ってみせた。
「こんなの直ぐに治るぜぃ」
「流石はモクバだ。強いな」
そう言って包帯の巻かれていない方の手を取ると、小さな指はしっかりと握り返してくる。
あの学生の手は瀬人のものより大きく、骨格がしっかりしていた。その手は暖かいのか、どんな感触がするのか。瀬人はふとそう思った。
週が明けて月曜日、就いている委員会の都合で居残りをさせられ、下校時刻間際に学校を出た瀬人は、道に伸びた影を追うように帰路についていた。余りに遅く戻ると、その理由を問われる。いちいち答える煩わしさを厭い、門限までに施設に帰り着こうと急ぎ足で歩く彼の背で、ランドセルに引っ掛けた歯磨きセットがかたかたと音を立てる。
目の前の信号が赤に変わり、瀬人は歩道の端で足を止めた。交差点を車が行き交い、後ろから来た人々も立ち止まる。
「あれ、お前」
不意に頭上から声を掛けられ、瀬人は振り仰いだ。
「克也」
見れば、先日病院で会った学生が鞄を肩に担いで見下ろしている。
「やっぱ、この前の餓鬼か。つぅか、なんでオレの名を知ってんだ?」
餓鬼と言われた事に眉を顰め、瀬人は身体ごと振り返った。
「一緒に居た女がそう呼んでいた」
「あー……あいつか」
頭を掻き、克也は気拙そうに呟く。やはり幼い表情をする、と見入っていると信号が青に変わり、周囲の歩行者は横断歩道を渡りだした。
「行こう」
腕を引くと彼は短く頷き、瀬人の横に並んだ。
「お前の名前は?」
「瀬人」
せと、と繰り返し克也はどんな漢字を書くのかと問う。
「水を意味する瀬にヒトだ」
「難しい方の瀬?さんずい偏の……」
「そうだ」
奇妙な言い方に苦笑し見上げると、彼は「瀬人、か」ともう一度繰り返した。
「そういえば、あの女の病は如何だったんだ?」
「病っていうか妊娠っていうか。いや、結局は何でもなかったんだけどよ」
克也は盛大に溜め息を吐き、通り掛かった公園に足を向ける。ついて行くと彼はブランコに腰を下ろした。
「格好悪いとこを見られちまったな。あいつ、無理なダイエットが原因の単なる生理不純だったみたいでさ。しかもそのダイエットをしようとした切っ掛けってのが馬鹿馬鹿しくて、オレが痩せてるからだとか吐かすんだ。そこで何でダイエットなんだよ、わけ判んねぇよ」
「そういう事だったのか」
うん、と彼はブランコを後ろに引き、そのまま揺らすでもなく元の位置に戻す。その傍に寄り、瀬人は鎖を掴んだ。
「わけが判らないような女と何故、付き合っているんだ?」
不快な想いが湧き上がる。それが克也に対するものなのか、あの女に対するものなのか判りかね、苛立ちに鎖を掴む手に力が籠った。
「告白されたからってやつ?ま、もう別れたから如何でも良いけど」
「別れた?」
「そう。元々惚れていたわけじゃねぇし、それに……」
克也は言葉を区切って瀬人を見、そしてその瞳を反らして空を眺めた。
「気になる奴が出来たし」
「ふぅん」
気のないような相槌を打ちながら、内心穏やかではない。
「その気になる奴が好きなのか」
「つまり、そういう事だな」
天を仰いだまま笑みをはき、克也は立ち上がった。
「ま、この話は良いや。小学生が余り遅くなると拙いだろ?送って行ってやるよ」
「わざわざ送られるような場所でもない」
言外に断わりながら、瀬人は思う。自分が児童擁護施設の子供だと知ったらこの男はどんな表情を浮かべ、どんな態度に出るのだろうか。
しかし克也は瀬人の内心を知りもせず「餓鬼なんだから遠慮するなって」と手を引いた。掴む手を払おうとして腕を振るが、彼は振り向いて陽気な眼差しを向ける。
「お前ん家って、どっちだ?」
「要らんと言っている」
瀬人は力任せに腕を引いた。勢いで克也は均衡を崩してふらつき、離すつもりでなかった筈の指が滑って拘束が外れる。彼が体勢を整えている隙に瀬人は踵を返し、公園の出口に向かった。
「おい、瀬人。如何したんだよ」
慌てて追いかけてきた克也が、ランドセルを掴む。
「何をむきになってるんだ?」
わけが判らぬとばかりに首を傾げる彼を睨むように見上げ、瀬人はその視線を俯けた。如何にかしてはぐらかそうにも、子供の稚拙な誤魔化しは通用しないだろう。
「オレに家は無いと言えば如何思う?」
「……は?」
「オレは孤児だ。因って児童擁護施設の厄介になっている」
克也が息を飲んだのが判った。一体彼は、どんな表情で此方を観ているのか。
憐れみか、同情か。それとも珍しさか蔑みか。
一旦口にした言葉は取り消せぬ。観念し、瀬人は握った指に力を込めた。
「母親は弟を産んで直ぐに、父親も二年前に事故で死んだ。だからといって天涯孤独というわけではない。暫くは親戚の世話になっていた。だが、奴らの目的はオレたち兄弟を養う事ではなく、両親が残した遺産を食い潰す事だった」
最初、彼等兄弟を引き取ったのは子供が居ない父方の親戚だった。子育てをしたい、という名目で兄弟を引き取ったものの、碌に世話も焼かずに豪遊しては、ブランドものの鞄や服を買っていた。だが或る時、瀬人の何でも見透かしているような視線が気味悪いと言い出し、再度親戚一同で集い、別の家庭に引き取らせるように話し合った。
「親戚中を盥回しにされた上、無一文にされ、オレと弟は擁護施設に放り込まれた。利用価値が無くなったから捨てられたというわけさ。親戚の誰にも愛着など無かったから清々したのだが」
しかし、自分の力では如何にも出来なかったとはいえ、良いように利用された事実は瘤となって瀬人の心に影を落としていた。
他人は――それが例え血の繋がった者であろうとも、決して信用しない。
それは生きる指標として、弟にもくどいほどに言って聞かせた。今は施設住まいで不自由させるが、いつか必ず良い暮らしをさせてやる。だからそれまでは自分たち二人だけで、他人を必要以上に当てにする事無く過ごしていこう。弱みを見せたら終わりだ、誰にも気を許すな。
子供らしい思考では無いかも知れない。しかし、瀬人にはこれ以外の事もこれ以上の事も言えなかった。
「瀬人」
克也は瀬人の正面に回り、膝をついて顔を覗き込んできた。その表情は想定していたものではなく、後悔と深い悲しみに彩られている。
「ごめん、言い難い事を言わせちまったな」
「なに、転校するたびに学校やクラスメイトに聞かれてきた事ばかりだ。今更説明する相手が増えたからといって……」
「辛さが無くなるわけじゃないだろう?」
自分こそが泣きそうになりながら、克也は瀬人の手を取る。痩せて筋張った掌は予想していたものより温かい。
「だけど、有難うな。話してくれて」
知ったからには遠慮は要らない、お前が世話になっている場所まで送ってやる。そういって繋いだ手を引かれて驚いたものの、瀬人はわざと意地の悪そうな笑みを浮かべ直した。
「克也こそ、送ってやろうか?」
言い返すと克也は僅かに目を見開き、そして何処か嬉しげに笑んだ。
「じゃあ、次の機会に頼むわ」
その明るい眼差しに、燻る蟠りが解けていく。身の上を語っても克也は変わらずに接してくれる、それが存外に嬉しい。甚だ自分らしくないが、如何やらこの男を思いの外気に入っているようである。
こっちだ、と克也を先導しながら施設に向かう瀬人の足取りはいつに無く軽やかだった。
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『テュケー』
ぼんやりと見上げた窓の外は眩しいほどに晴れ渡っている。
授業中である為に静まった校舎。賑やかなのは体育が行われている運動場と体育館くらいか。
陽当たりの良い窓際の席で頬杖をつき、城之内は空を見上げた。
鮮やかな蒼。忘れられぬ愛しい色。青など周囲を眺めれば幾らでも見つかるが、彼が求める色彩は澄み切った上空にしか無い。
目を閉じると瞼に浮かぶ幼い姿。想い続けて、もう十八年になる。
「前から思ってたんだけど」
昼休み、弁当を頬張っていた遊戯がおもむろにきり出した。
「城之内くんってよく空を見ているよね」
「あぁ、それオレも気になってたんだ」
隣で焼きそばパンを囓っていた本田も重ねて言う。突然振られた話に城之内は食事の手を止めた。
「そうか?」
「うん。なんだか幸せそうって云うのかな……違うなぁ、哀しそうなのかな?物思いしているように見ているよ」
「そうだぜ。あれは恋する眼差しだな」
城之内が恋だなんてガラでもねぇけど、とおどけ道化て舌を出した本田の表情が強張った。遊戯もはっとしたように見つめてくる。
「まさか、そうなのか?」
二方向から凝視されて、城之内はたじろいだ。
「は?何を言ってんだよ」
「だって今、図星だってツラしていたぜ」
「……なっ」
慌てて顔に手を当てる。
そんなあからさまな表情をしているのか。
「どんな子なの?可愛い?」
誰なのかと聞いてこないところが遊戯らしい。
「オレに惚れた相手が居ること決定かよ」
「てめぇは口で言うより、ツラと態度で丸判りなんだよ」
本田の指摘に城之内は俯き、玉子焼きを口に放り込む。如何にも居た堪れない。
「片想いなんだよ。この先もずっとな。だからこの話は終わり」
一方的に区切りをつけると、遊戯と本田は顔を見合わせて口を噤んだ。
出会ったのは、この身に生を受ける一年ほど前だった。
当時付き合っていた女の付き添いで向かった総合病院で、その姿を見た瞬間に恋をした。自分より六歳も幼い子供が愛しくて、彼を庇って事故死してからも、肉体のない身で傍に居た。だが、未来有る子供がいつまでも死者に囚われていてはならないと思って彼の許を去り、魂は現世を離れた。
その筈だったのだが、気付いた時には再び生を得ていた。
同じ容姿に生まれつき、あの頃と同じく克也と名付けられた彼には、記憶がそのまま引き継がれていた。
可も不可もなく過ごしていた十七年間。たいして充実もしていなかった人生、その最後の僅かな期間に感じた強烈な心の揺れと、それを齎した蒼い瞳の少年。幼少の城之内よりも年上であり背丈も高い筈なのに、常に下向けた視線の先に居る彼が何者なのか判らなかったが、ただひたすらに会いたいと思っていた。
混在する記憶について考えてみても幼い脳では答えが出せず、窮して親に喋ったところ、夢だとあっさり切り捨てられた。経験も視野も乏しく、親の意見が総べてでしかなかった子供はその一言に、夢だったのかと納得させられた。
幸せな想いを抱く夢。それが実は夢ではないと気付いたのはいつだったか。
切っ掛けがあったわけではない。誰かに言われたわけでもない。初めて行く場所や、知らない筈の事柄が既知だった為でもない。ただ内なる魂が告げていた――その記憶は前世のお前のものだと。事故によって生涯を閉じても猶、傍に居たかったほど少年に焦がれていたのは、お前自身なのだと。
小学生だった頃のある日、友人が持っていたゲーム誌を何気なく見遣った城之内は凍り付いた。思わず奪い取った雑誌に載っている写真は、見紛う事なくあの少年だった。いや、写真に映った姿は大人のものだったが、間違いなく記憶の中の少年――瀬人だった。
「いきなり何するんだよ、克也」
友人は不満そうな声をあげ、城之内の見ている記事を覗き込んできた。
「海馬様が如何かしたのか?」
「海馬、、、サマ?」
尋ね返した城之内に彼は頷いてみせる。
「知らねぇのか?海馬コーポレーションの社長で、海馬ランドを造った人だよ」
社長、と独り言のように繰り返し、記事に目を向ける。
瀬人が養子として引き取られたのは、海馬コーポレーションの社長の許だった。後継者として教育を受けた彼は、地位を継いだのか。
「あれ?待てよ」
瀬人は確か十歳だった。あれから経った年月を考えても、二十歳にしかならない。
「大学とか行ってないのか?」
知的な子供だった。最高学府に行っていないのは勿体ない気がする。首を傾げる城之内を友人は笑った。
「お前、ほんとーになんにも知らないんだな。海馬様は高校の頃に前の社長が死んで後を継いだんだよ。今は大学生社長だぜ」
「そ……なのか」
何処で何をしているのか知った為か、それとも写真を見た所為か、会いたいと思う気持ちが強まる。
しかし一企業の社長に、そう易々と会える筈がない。かつて親交があったにせよ、今の自分は小学生でしかないし、生まれ変わってきたと述べたところで信用して貰えるとも限らない。それに、付き合いがあったのは瀬人がまだ小学生だった頃だ、慕っていた過去は記憶の隅に追いやり、今では前向きに暮らしているだろう。
いつまでも死者に拘るなと言ったのは自分。彼の許を去る時にそう願ったのも自分。
だが、未だに瀬人への気持ちを抱いている為に寂しく思ってしまう。
――今でも好きでいるのはオレの方だけだよな。
雑誌を見て、溜め息が零れる。笑みを浮かべた写真はインタビューを受けている最中のものらしい。
類を見ない整った顔立ちとすらりとした体躯、意思の強そうな蒼い瞳。子供の頃から綺麗な顔立ちだったが、成長と共に精悍さを増した。高い鼻梁と笑みを形作る唇に酷薄さはあるが、この容貌ならさぞかしもてるだろう。
――餓鬼の頃だって女の子から好意を向けられていたんだ。
考えるだけで心が痛む。
こんな思いをする為に記憶を留めたまま生まれてきたのか。それが余りにも悲しくて、深く想っていた過去の自分を、そして叶わないと突き付けられても消えようとしない恋心を恨むしかなかった。
海馬コーポレーションが主力として扱っているカードゲーム――マジック&ウィザーズに興味を抱いたのはその友人から、瀬人がこのゲームを得意としていると聞いてからだった。しかし城之内には自分の自由になる金など無い。加えてその後、劣悪な家庭環境に引き摺られるように生活が荒んで行き、馬鹿げていると判っていても、碌に学校へも通わず、様々な鬱憤を解消する為に喧嘩に明け暮れる日々を送るようになっていた。やり直している人生までも無駄にしている事が許せず、それが苛立ちに拍車を掛ける。
転機はクラスメイトの進路についての話題だった。中学三年ともなれば、進学先の高校の話で持ちきりになる。しかし、城之内は自分の将来に関わる事だというのに真剣に考えず、進学するかどうかも決めずに成るように任せていた。
そんな折、耳に入ってきた会話。
「高校、何処を受験するか決まったか?」
「そうだなぁ。公立なら童実野高校かな。近いし」
「童実野高か。そういえばさ、海馬コーポレーションの社長の海馬瀬人って童実野高の出身なんだってな」
――え?
「おい、それマジかよ」
突然身を乗り出してきた城之内に、クラスメイトは驚き、次いで、話し掛けてきた相手が札付きの不良であると気付いて慄いた。
「そ、それって?」
「せ……じゃなくて、海馬瀬人が童実野高校出身ってやつ」
「ほ、本当だよ」
――童実野高校だって?瀬人が?
未だに怯えているクラスメイトは最早、城之内の目に映っていなかった。
――如何して童実野高校なんかに?あいつめちゃくちゃ賢かったじゃん。
その上、養父から英才教育を施されたのだ、学校の成績が悪かった筈がない。
――オレが通っていたから……とか?
まさか、そんな事は有り得ない。そう思いながらも、もしそうなら、と期待を掛けてしまう。
もし、そうであったなら。瀬人が城之内の事を少しでも覚えていてくれるのなら、それはなんて幸せな事だろう。
城之内は席に戻るとペンを取り、提出期日が過ぎた進路希望調査表の志望校欄に『童実野高校』と書き込んだ。
二日前にアルバイト先の先輩に頼まれてシフトを変わった為に休みが入れ替わった。いつもならばアルバイトが休みの日は仲間たちと街に繰り出して遊ぶのだが、唐突に入った休みに遊戯は対応しきれず、家の手伝いがあるのだと何度も謝りながら学校を後にし、特に用もないらしい本田が残った。
遊戯と一緒ならマジック&ウィザーズのデッキの調整やデュエルをするのだが、本田はこのゲームを得意としてない。ゆえに城之内は彼と連れ立って街へ行き、取り敢えずとばかりにゲームセンターへ入った。本田は紙幣を硬貨に両替して様々なゲームに興じるが、城之内はそんな友人のプレイに横槍は入れるものの、自身ではあまり遊ばない。ゲームは嫌いではなく寧ろ好きである。だから夢中になるとあっという間に硬貨を使い果たしてしまう。城之内の家庭は彼のアルバイトと朝刊配達の他の収入が無く、その為に生活は苦しい。よって遊興費はなるべく抑えたいので、両替はせずに財布に入っている硬貨分だけ遊ぶ事にしていた。そんな事情を知っている為、本田は特に何も言わない。
ゲームセンターを出て辺りの店を眺めながら歩いていると、通り過ぎた建物の隙間から何やら不穏な気配がした。
「おい、本田」
「おお」
悪友を小声で呼び止めると、意を察したらしく彼は足を止めて数歩戻り、路地を覗き込んだ。
薄暗くゴミの散乱した路地裏には体躯の良い七、八人ほどの学生が此方に背を向けて立っている。彼等に囲まれて縮こまっているのは、童実野高校の学生。
「喝上げか」
「奴等、隣玉の連中だぜ」
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『延ふ葛の』
空の近い緑溢れる城砦。山を下ると小規模の集落が点在し、平地部分には町が形成され、地形を利用した棚田が目を引く。
ひと際高い山を縄張りとした城は、切り立った崖を背面として築かれていた。頂を平に削った本丸に二層から成る城郭を築き、斜面に沿って造った土塀の要所に物見櫓を備え、小振りながらも防衛に優れ、攻め入るのは先ず不可能だと思われた。だが、城はあっけなく敵の侵入を許し、城主と家臣は討ち取られ、他の者は散り散りに土地から逃げていった。非戦闘員である下男や下女には危害を加えるつもりなどなかったが、彼等にとって刀を手に攻め込んできた敵は恐怖の対象でしかなかったのだろう、戦の喧騒が去って或る程度の落ち着きを取り戻した頃、城内には誰一人として残っていなかった。
攻め手の大将軍であった海馬瀬人は、崩れた大手門の前に立ち、静まり返った山城を見上げた。門を潜って直ぐの位置に城主の屋形が在る。海馬の居城も他の城も、縄張り内に居住空間は無い。基本的に城は軍事的なものである為、住み心地は頗る悪く、城壁や空掘の外側に――主に山の中腹か麓に住んでいるものであった。
彼の故郷は遥か東に在る。土地一帯を治める領主の臣下の子として生まれた彼は、子供の無い城主の養子となり、世継ぎとして育てられた。だが不穏な世情。臣下は主君を誅し、主君は臣下を斬り捨てる。幕府の権威は失墜し、群を成した郎党や足軽が城を攻め、時には町まで戦火が及び、荘園では略奪が横行する。海馬の国も例に違わず、戦乱が続き、人心は乱れていた。防衛の為、或いは攻撃の為、海馬は事ある毎に戦に向かう。彼が大将軍として出た戦は決して負ける事はなく、落ちない城も無く、次々に功績をあげる海馬を人々は、流石世継ぎとして迎えられただけの事はあると、その闘い振りを褒め称えた。一方、城主は頭角を表してきた義子を恐れ、いつ寝首を掻かれるかも知れぬと厭い、僅かにでも不審な行動を取ろうものなら即、追放しようと目を光らせていた。
ならば期待通りに行動してやろうではないか。
海馬は数人の臣下と同心して城内に混乱を引き起こし、それに乗じて養父を討った。
自ら謀叛人となり、城を簒奪した彼が誰を信用し、そして誰が絶対的な信頼を向けるというのか。信じられるのは己と唯一の弟のみ。共に戦ってきた郎党も、謀叛の協力を仰いだ臣下も信じず、猜疑に溢れる国土に畏怖による圧制を敷き、その為の絶対的な権力を求めて兵を挙げては更に領地を広げてきた。
城奪りは一筋縄にはいかず、狙われた土地の主は当然、必死の抵抗を見せる。だが、兵力は劣りながらも的確な采配で戦に勝ち続け、西に向けて着実に領地は広がっていった。
海馬がこの地に来た時に先ず驚いたのは、戦乱の世にそぐわないまでの長閑さだった。
所々の地形は険しいが、陽光は穏やかに枝葉に注ぎ、至るところで鳥の囀りが聴こえ、様々な風が撫でるように吹き抜けていく。城の裏手の崖の下には小川が流れ、水面は木々や陽を反射して輝いている。
たったそれだけの小さな領地。攻める価値は見出せなかったが、此処まで進軍してきたからには何もせずに戻るつもりになれず、彼は軍勢を守りの手薄な箇所に回し、斜面を水平に掘った堀切を避けて登り、土塀を破って攻め込んだ。城主が戦慣れしていないのか、碌な軍師が居なかったのか、また別の要因があったのかは定かでないが、たいした兵力を使わずとも城は落ち、当主であった城之内氏とその一族は滅んだ。
――呆気ない。
海馬は息を吐いた。
踏み込んだ時、物見櫓はもぬけの殻だった。敵兵が縄張りに侵入した為に、見張りと防御の役を投げ出して避難した為だと思われる。屋形にも人は居らず、逆に本丸の城の内部には多くの兵と下働きの者などで溢れかえっていた。その状態で如何やって戦をするというのだろう。
――自滅だな。愚かな事だ。
無人になった城。それでも息づく風景と、麓の町で営われる生活。
彼は居城を此処に移すつもりでいた。弟のモクバが景観を気に入った為でもあるが、忙しない俗世から隔離されたようなこの土地で暫くの間、疲労した精神を癒したかった。
それまで拠点としていた城を忠義を誓った家臣に任せ、海馬は弟だけを連れて山城に移る。
下働きの者は領地内の町や村から募ったが、郎党は敢えて故郷に残してきた。主が不在となれば叛乱が起こる可能性が大きい。目が届かない分、護りを強固にしておかねばならぬ。
一方、この土地の周辺には足軽が多く、仕事――治水等の土木関係が主だったが――の斡旋をする代わりに、有事には当方の軍兵となるよう協定を結んだ。先ずは城の強度を上げる為、土が剥き出しになっている斜面を石垣に、堀切の土砂が堆積している箇所を掘削し、縄張りの外周を空掘で埋める工事を依頼した。
モクバは城をたいそう気に入り、蔵から絵図面を探し出してきて、それを見ながら毎日敷地内を散策していた。縄張り内の造りは簡単で、曲輪(くるわ)と称される区画は、本城とそれより下に位置する本丸の二つしかない。本城の二階は見晴らしが良いかわりに、土塀の周囲を覆う樹々の所為で近辺の様子は見えないが、遠くまで見渡せるがゆえに攻めて来る軍勢の発見が容易で、どれだけ対応が愚鈍だとしても、敵を土塀の内には立ち入らせずに追い払う事が可能である。
「これだったら、オレが殿様でも負けないぜぃ」
モクバは設計図を眺めながら物見櫓を見上げた。
「だけど、兄サマが勝ったおかげで、此処に住めるんだけどね」
この山城に移ってきて五日が――さき前の城主を討ってから十日ほどが経ち、海馬は税制を見直そうと過去の帳簿を探した。
しかし未だ勝手が掴めていない城の事、何処に何があるのか把握しきれていない。毎日のように散策しているモクバなら帳簿の在処を知っているのではないか、否、知らずとも凡その保管場所の見当はつくのではないか。そう思い弟を呼ぼうとしたところ、慌てた様子で彼が駆け込んできた。どうかしたのか、と問うより早く弟は「鬼の屍骸がある」と来た道を指差す。
「鬼?」
馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てるも、モクバは首を振り本当なんだと訴えた。
「本丸の城に地階があって、それが変なんだ。図面と実寸法が合わない。よくみてみたら妙な隙間があってさ、調べてみたら戸が隠れてたんだ。それを開けたら階段があって、下りたら座敷牢になっていて、そこで鬼が死んでるんだ。ガリガリに痩せていて長い金色の髪でさ……」
モクバは兄の手を引いた。
「兎に角来てよ」
溜め息を吐き海馬は、弟に引かれるまま曲輪を上がり、城に入り地階に下りる。予想外に天井が低く、腰を屈めなければならない。
鬼など居る筈がない。金色の髪というのも有り得ない。弟の見間違いだろう。
内心で呆れつつ、地階を見回した。城の重量を支える為の太い柱が目に付く。
「天井が低いな」
「おかしいでしょ?五尺しかないんだよ。オレだから立っていられるけど、大人の男だったら背を丸めなきゃならない。兄サマの背丈は六尺二寸だから結構辛いよね」
在るのは部屋が二つとそれに繋がる通路。双方ともに何も無く、物が置かれていた形跡も無い。
「絵図面に因ると、この通路部分の横幅は六尺で長さは二十三尺。でもって、並んでいる部屋。こっちの幅はどの位だと思う?」
「七尺……いや八尺か。もう一方も同様の幅だと思うが?」
「オレもその位にしか見えなかったんだ。でも、図面には一部屋当たり十一尺と書かれている。可笑しいでしょ?」
言われて意識しなければ建築の差異には気付かない。だが、図面を見ながらだとこの蔵の不自然さは明らかだ。巧妙に隠された一間強――つまり六尺以上の幅を持つ空間。
「部屋の間の壁が特別厚いわけでもない。調べてみたら、此処が仕掛扉になってたんだ」
モクバは窓際に寄り、漆喰の壁の下部分に貼り巡らされた板の中の、一枚だけ手垢で黒ずんだものを剥した。そこには閂があり、解除すると真横の壁の一部分がまるで扉のように手前に僅かにずれた。それを開けて、現われた空間を覗き込むと、階段が下へ続いている。
「怪しいな」
モクバは頷き、階段を下った。暗いのかと思っていたが、壁の上部に小さな窓があり、その為に土蔵は明るい。奥がモクバの言っていた座敷牢なのだろう、格子が巡らされ、その向こうは畳敷きの部屋になっていた。薄暗い牢の中、敷かれた蒲団の上に人が一人倒れ伏している。
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